店主に最近書いていないから書けと言われ、 おっとが自己紹介します。
おっとは大学院で哲学を研究しています。
哲学の研究って雲をつかむような話で、ちょっと説明がいりますね。
のびのび荘にはよく多方面の面白い方が来店され、時には刺激的なお話をして下さるのですが、
その中で「言語造形」という言葉を知りました。
言語造形とは、朗唱によって「空気を形作る」というアイデアなんだそうです。
それで「空気を形作るのは音楽もそうかな」などと話して、
じゃあ、見ようによっては音楽も造形芸術の一種ではないか、と思いました。
ところで哲学は、言葉を使って世界を造形するという意味で、彫刻に近いと説明されたりします。
なるほど、非常に的を射ていると思います。
哲学は、世界をかたどるのに最適な道具へと言葉を鍛え上げ、これを使って論理、想像、類似性の発見、疑問などの各場面を構造的に組み上げてゆくのです。
哲学が非常に難しいことの一端には、新しい道具をゼロから習得するのではなく、日常的に苦も無く用いている言語を哲学の道具用に矯正し、これを鋭利に研いでゆくという作業にあります。哲学といえばやっぱり、日常生活で湧いてくる微妙な疑問から始まるものですが、日ごろ使いこなしている言葉と哲学の言葉の間にはギャップがあります。
二つの言葉の間にギャップができるのは、使用される目的の違いに一部原因があると思います。
「真理を探究する」でも「世界を造形する」でも同じことですが、日常生活でこんな目的に言語を用いることはほとんど無いでしょう?
たとえば、
「ちょっと脱線するけど、おまえに心があるってどうして言える?」って、修正の効かない脱線だと思います。ぶしつけにこんなこと言われたら誰でも無視しますよ。
なにせ、出発点がふと浮かんだ素朴な疑問ですから、一見ヒマさえあれば哲学なんて簡単にできるように思えるはずです。
誰かしら自分は「哲学」を持っていると思うけれど、自負とは裏腹に内容はスカスカです。申し訳ないけど。
何事もこうなんだろうと思いますが、いい道具を手にして、しかもこれを熟知した上で使いこなせなくては、目的を達成できないんでしょうね。
日頃使っている言葉や思考では、なまくらで使い物になりません。
哲学の言葉はいたずらに難しいわけではなく、本当に難しいんです。
難しいことをいかにも難しそうに考えるのと、難しいことを平易に考えることは違う。哲学は後者を目指します。平易に考えても、難しいことはやっぱり難しい。
難しいことをいかにも難しそうに考えるのと、難しいことを平易に考えることは違う。哲学は後者を目指します。平易に考えても、難しいことはやっぱり難しい。
自分が日頃やっていることってこんなことです。私なんて、まだまだ。
誤解を招きやすいほど簡単に見えて、その実おそろしく難しい。だけど、なんて魅力的なんだろう。
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